大隈重信
今年は大隈重信没後100年。薩長出身ではない非主流の立場で明治維新の日本の財政と外交に携わり、2回首相を務めた政治家。民間活力による産業振興を行う小さな政府論者であって、東西文明の調和の理想を持っていた。1881年43歳の時の政変で在野となり、44歳の1882年に東京専門学校を設立、その後政府に復活し、外務大臣だった1889年51歳の時に爆弾テロで右脚を失い、76歳から78歳まで二度目の総理を努め、1922年1月10日に83歳で亡くなった。「自分の人生には功績よりも失敗の方が多い」と述べる大隈は、鋭い直感力を持っており、やるなら命がけで本気でやれ、というのが幕末以来の信念だったと。
特にイギリス風の政党政治の導入を目標としていたことが印象深く、早稲田大学は、つまり日本のオックスフォード大学となるべく設立された、と理解しました。
明治維新の時に掲げられた日本という国の理想には全く道半ばで、逆に政治的、倫理的、科学力的、教養的にも日本社会は衰退しているのではないかとさえ思ってしまいます。100年前と言えばまだついこの間でもあり、改めて世界で輝く日本への理想を持って取り組みたいと思う。
イギリス風の政党政治を目標に
「イギリス風の政党政治を作り「 輿論」を政治に反映させ、東アジアに安定した秩序を作り、清国や列強と貿易を拡大して日本を通商国家として発展させることができるのは、伊藤ではなく自分である、と。」いう強い自負心が大隈にはあった。
ここで「大隈は、国民のよく考えぬかれた理性的な意見である「輿論」と、むしろ気分や感情に影響された意見である「 世論」を区別している。」
「大隈は輿論にもとづいた政治を理想とし、中産階級以上の自立した個人がリードしているイギリス風の政党政治をめざした。しかし、世論の力も知っており、世論に流されないように、さらに世論をできる限り味方に付けようと試みながら、理想の政治をめざした。」
経済発展も大隈は「イギリスの商業は自由貿易を主義として「大陸」を相手として世界のいたるところで「競争」してきたので発達してきた、とイギリスを理想のモデルとしてとらえる」。また「列強に対抗するためにも、さらなる教育の充実を主張した。読み書きや、国民の「心性を開拓」して知識を啓発する普通教育だけでなく、「専門学の講究」(高等専門教育と研究) も重要だと言う。それは、政治経済法律や商業などと、技術教育、さらに「発明」である。日本の学者は「発明」を欧米に委ねて、その成果を模倣するという姿勢でいるが、もっと発奮すべきであると批判する。」
「また、イギリス人は非常に「寛大の心を有する国民」で「平和及び自由を愛する国民」であると見る。さらに大隈は、「正義と人道とはアングロサクソン精神の 主 重なる要素」であるとまで、アングロサクソンが支配する国家(文明) を評価する。」
大隈は日本の道徳の軸に武士道(葉隠ではない)を置き、「さらに大隈は、武士道精神を国際的に通じると断じた。すなわち、「正義人道」と「平和」を主とする道義である武士道の終局の目的は、あたかも「英国『紳士』たる可き資格」と異なるところはないと、イギリス紳士の規範と武士道との共通点を強調する。したがって、そうした武士道精神を持っている日本は、世界列強に肩を並べて「東洋の帝国」として「東西文明を調和」し、「正義人道」の実行によって「世界平和に貢献」せんとしている、と日本の役割をとらえる」
「大隈は自らをグラッドストンになぞらえて、藩閥政治と戦い、日清・日露両戦争後の財政危機を救い、東アジアに平和の秩序を確立しようと、改めて気を奮い起こし、キャンペーン様式も取り入れたのだろう。」
民間の活力と小さな政府
「議会で予算を削減して生じた剰余金が、減税に回されず蓄積されているので、「政府及一種の政論家」は新事業を計画しようとし、また「民間の企業家」も政府の保護に頼ろうとしている。もし国庫に剰余金がなく増税をして新規事業をするのであれば、計画する者の責任は重く、議会も責任を負って可否を決する〔が、剰余金があると使い方が放漫になる〕。したがって、国庫に生じた剰余金は、ことごとく「民力休養」に向け過重の租税を軽減し、不当の租税を廃止すべきである。これが実行されるなら〔経済は成長し〕、将来において、国家が富んで成長するためや、軍備・教育などのために国費を投じる政策を行えるようになる。」と言う大隈の小さな政府論には大いに賛同する。
「大隈は、三井・住友・藤田・安田・古河といった「第一流の実業家」も含めた実業家たちが、「百姓や労働者や小さな実業家」などに向かっては尊大で 威張っているが、「役人」〔閣僚や官僚〕 に対しては「勢力が無い」、「頭が上がらぬ」というように、いまだに「専制時代」の臆病風に吹かれていると述べて、実業家の気概ある行動を求めた。」
早稲田大学について
東京専門学校開校の小野梓の祝詞で、「まず「政治を改良」し「法律を前進」させるために、本校は政治法律の学科を先に置き、次いで理学を置く予定であるが、これは理学を軽んじているのではなく、現在の日本における緩急を考慮したためである、と説明していることである。」とあるのが興味深い。
「東京専門学校の学生に、イギリスを中心とした政治・法律の基本を身につけさせ、日本を藩閥政治から脱却させる自主・独立の精神を育成する。そのうえで、自分で判断させ、日本が独立を維持・拡大するリーダーに育成しようというのは、小野と大隈に共通する目標であったといえよう。」との事で、イギリスが強く意識されていた。
1907年に大隈が早稲田大学の総長になるとの議論があったが、「これは、イギリスのオックスフォード大学・ケンブリッジ大学のような名門私立大学が名声ある大家を戴いて、名誉総長とするのに 倣ったものである。」との事で、ここでもオックスフォード大学が意識されている。なお、オックスフォード大学では「大学」は国立で、それを構成する「カレッジ」は私立とも言えるのですが、そもそも「国家」というものがができる前から大学あったので、日本で言う「国立大学」という概念とは異なる。
「1907年当時の日本では、公式な大学は帝国大学しか存在せず、東京帝国大学(1886年設立) と京都帝国大学(1897年設立) の二大学のみで、同年六月に東北帝国大学の創設が予定されていた。大隈や早大関係者は、オックスフォード大学のようなスタイルを取り入れ、官学である帝国大学と競い合おうとしたのである。」ということで、日本のオックスフォード大学となるべく設立されたと理解しました。
「大隈は、日本が清国と韓国、とりわけ清国の近代化を促進すること、および清国との自由貿易の拡大によって日清両国が発展することを構想していた。それが東アジアの秩序を安定させ、日本の安全保障を確固たるものにするとも考えていた。大隈にとって早稲田大学は、この目的のための学術・文化面での機関であった。また同様に、日本にイギリス風の政党政治を確立するため、政治思想を普及させリーダーを養成し、自立した中産階級以上の人々を拡大していく機関でもあった。」
1902年「「早稲田大学開校式」(東京専門学校創立二十年祝典) で、大隈は同校の創立の趣旨を、学問の独立のためであり、外国に対してのみならず国内のあらゆる権力に対して独立の必要があるからだと論じた。」
「また大隈は言う。国家の権力が過大で、人民の勢力が振るわない日本の社会には、官府の力によって立てた大学があっても、未だそれと対抗する民設の大学を見ることができない、と。 ここでも大隈は、外国の学問とその受け売りでない日本に適した本当に必要な学問、政府の政治権力や東京帝大・京都帝大などの官学の学問上の権力に対抗できる私学、という二項対立と調和*の図式を打ち出している。」
大隈は「早稲田は帝国大学その他官立学校に反抗したように誤解されたが、そうではなく、帝大や官立学校の及ばない所をお手伝いしてきたのであると語り始める。科学を学ぶことへの必要性が高まっているが、「官学」は十分に国民の要求に応じることができないとし、科学関係の面での大学の拡張への意欲を示した。また、私立の学校は官立に比してすべてが経済的に行われるように思う、もとより「一長一短はあるが」、「官立」よりも「私立」が大なる特徴を現わすことができる点もある、と「私立」の経営の効率性と独自性への自信を示した。 この私学の独自性を強調する立場から、1907年4月の慶應義塾50年祭で、大隈は私学のライバルでもあった慶應義塾と福沢諭吉に対しても、大きな敬意を示している。大隈は福沢を「畏敬すべき先輩」であり、「思想界の革命」を企て、「アングロサクソンの文明」を輸入しようとして政府から大きな圧迫を受けたこともあり、政府に仕えず、「日本の旧道徳をも破壊」しようとした と、新時代を切り開いた先駆者として高く評価した。」
科学、友人からの忠告、不老長生
「大隈はすでに日清戦争後の佐賀への帰省の際には、科学への強い関心を示していた。その後、早稲田の大隈邸の台所を「科学的」台所として公開したり、自ら「台所研究者の一人」と講演で述べたりもしている。」
1879年1月10日41歳の時に、友人の五代友厚から大隈へ心からの忠告を手紙が身につまされる。「第一に、「愚説愚論」を聞くことによく耐えてください。「一を聞いて十を知る」ところは、賢明すぎる大隈の短所です。第二に、自分と地位を同じくしない者が、大隈の見解と「五十歩百歩」の意見であるときは、必ずその人をほめてそれを採用して下さい。人の論を称賛し人の説を取らないと、大隈の徳を広めることができません。第三に、人が「才能智識」で大隈に及ばないのを知って、大隈が「怒気怒声を発する」ことに一つの利益もなく、「徳望」を失う原因です。第四に、「事務」を決断するときは、多数が納得できるような時機を待って行ってください。第五に、大隈がその人を嫌えば、その人もまた大隈を嫌うでしょうから、自分の好きでない人に強いて交際を広められることを希望します。」
大隈は「「不老長生の秘訣」を説いている。 それによると、飲食の欲を「中庸」にして満足し、苦を転じて楽とし、過去を顧みずして精進し、自らの年をいわず、各自の天命を全うするといったものであった。」