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Showing posts from January, 2022

大隈重信没後100年

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早稲田大学の創設者、大隈重信は1922年1月10日に早稲田で亡くなりました。明日の2022年1月10日は 大隈重信没後100年 との事でお墓参りをさせて頂きました。 100年を経った今でも多くの方がお参りにこられる大きなお墓は、オックスフォードのホールの肖像画のにょうに「 何かを学び,成さんとする人に対し,示唆を与え 」られるような場所でした。 大隈重信は近代日本の立ち上げに尽力され、早稲田大学という想いのこもった大学を設立されたご功績に対して想いを寄せ、自分も同じように世に貢献したいと願って手を合わせました。 2022年1月4日の投稿「大隈重信」 中の引用を改めて思い起こしまた。   「経済発展も大隈は「イギリスの商業は自由貿易を主義として「大陸」を相手として世界のいたるところで「競争」してきたので発達してきた、とイギリスを理想のモデルとしてとらえる」。また「列強に対抗するためにも、さらなる教育の充実を主張した。読み書きや、国民の「心性を開拓」して知識を啓発する普通教育だけでなく、「専門学の講究」(高等専門教育と研究) も重要だと言う。それは、政治経済法律や商業などと、技術教育、さらに「発明」である。日本の学者は「発明」を欧米に委ねて、その成果を模倣するという姿勢でいるが、もっと発奮すべきであると批判する。」   「大隈は、三井・住友・藤田・安田・古河といった「第一流の実業家」も含めた実業家たちが、「百姓や労働者や小さな実業家」などに向かっては尊大で 威張っているが、「役人」〔閣僚や官僚〕 に対しては「勢力が無い」、「頭が上がらぬ」というように、いまだに「専制時代」の臆病風に吹かれていると述べて、実業家の気概ある行動を求めた。」 「大隈や早大関係者は、オックスフォード大学のようなスタイルを取り入れ、官学である帝国大学と競い合おうとしたのである。」

益田孝さんのお墓を表敬訪問

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三井物産の創設者の 益田孝 さんを表敬しお墓参りをさせて頂きました。  1876年に三井物産が設立された時はベンチャー企業だった。 「1876年、創立時の旧三井物産社は職員16名、指揮を執るのは27歳の青年社長・益田孝だ。今でいうベンチャー企業である。」 旧三井物産初代社長 益田孝氏 「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれること望む」 「 新会社はその定款で、「貿易」を本務とした。益田は「三井物産会社を創立したのは、大いに貿易をやろうというのが眼目であった。金が欲しいのではない、仕事がしたいと思ったのだ」と振り返っている。また志として「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれること望む」と述べている。」( あゆみ 旧三井物産の創立と初代社長・益田孝 27歳の青年社長と16人の精鋭 より) 1876年、創立時の旧三井物産社屋 新たに三井物産のようなベンチャー企業を今の日本から生み出すという遠大な希望を抱いて手を合わせた。

「最初のベンチャーキャピタリスト」に学ぶ、VCの使命と原点

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  「The First Venture Capitalist: Georges Doriot on Leadership, Capital, & Business Organization」 1946年に最初のVC投資会社 アメリカン・リサーチ&デベロップメント   (ARD)社を設立した「最初のベンチャーキャピタリスト」 ジョージ・ドリオ (Georges Doriot  1899 – 1987) 氏についての本。ドリオ氏はハーバード・ビジネス・スクールの教授でINSEADの設立にも関わった。大分前にARCHのオフィスに行った際に沢山置いてあったのを1冊頂いた思い出のある本。 ARDは米国で最初に創業期の技術系ベンチャーに組織的に投資する事業を始めたVCの原点。当初はMIT発のベンチャーへの投資が中心で、その中から創業期から投資をしたDEC社が大成功した。 ARD社は自身が上場していたVC投資会社で、今のファンド形式のVCが確立される前であったこともあり、キャピタリストへのインセンティブ設計がまだなくリテンションには苦労したようだが、ドリオ氏とARD社のメンバーは大学に埋もれた研究から新しい経済を創り出すベンチャーキャピタルという仕事を強い使命感を持って始めた事が分かる。これがVCの原点。 ベンチャーキャピタルという使命 ドリオ氏にとって、ベンチャーキャピタルは宣教師のような使命感に基づいた活動であった。そして、その使命に賛同する仲間を彼は広く探していた。 "For Doriot, venture capital was a missionary activity. And he searched far and wide for those who believed in the mission." ドリオ氏のベンチャー・キャピタルに対するアプローチは、あまりにも宣教師的な使命感にに突き動かされたものであったという指摘がある。 "There are those who argue that Doriot was much too missionary in his approach to venture capital." 大学の研究から新しい経済を創出 大学や研究機関に眠る膨大な知識と研究から、新しい経済を創造

大隈重信

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今年は 大隈重信 没後100年。薩長出身ではない非主流の立場で明治維新の日本の財政と外交に携わり、2回首相を務めた政治家。民間活力による産業振興を行う小さな政府論者であって、東西文明の調和の理想を持っていた。1881年43歳の時の政変で在野となり、44歳の1882年に東京専門学校を設立、その後政府に復活し、外務大臣だった1889年51歳の時に爆弾テロで右脚を失い、76歳から78歳まで二度目の総理を努め、1922年1月10日に83歳で亡くなった。「自分の人生には功績よりも失敗の方が多い」と述べる大隈は、鋭い直感力を持っており、やるなら命がけで本気でやれ、というのが幕末以来の信念だったと。 特にイギリス風の政党政治の導入を目標としていたことが印象深く、早稲田大学は、つまり日本のオックスフォード大学となるべく設立された、と理解しました。 明治維新の時に掲げられた日本という国の理想には全く道半ばで、逆に政治的、倫理的、科学力的、教養的にも日本社会は衰退しているのではないかとさえ思ってしまいます。100年前と言えばまだついこの間でもあり、改めて世界で輝く日本への理想を持って取り組みたいと思う。 イギリス風の政党政治を目標に 「イギリス風の政党政治を作り「 輿論」を政治に反映させ、東アジアに安定した秩序を作り、清国や列強と貿易を拡大して日本を通商国家として発展させることができるのは、伊藤ではなく自分である、と。」いう強い自負心が大隈にはあった。 ここで「大隈は、国民のよく考えぬかれた理性的な意見である「輿論」と、むしろ気分や感情に影響された意見である「 世論」を区別している。」 「大隈は輿論にもとづいた政治を理想とし、中産階級以上の自立した個人がリードしているイギリス風の政党政治をめざした。しかし、世論の力も知っており、世論に流されないように、さらに世論をできる限り味方に付けようと試みながら、理想の政治をめざした。」 経済発展も大隈は「イギリスの商業は自由貿易を主義として「大陸」を相手として世界のいたるところで「競争」してきたので発達してきた、とイギリスを理想のモデルとしてとらえる」。また「列強に対抗するためにも、さらなる教育の充実を主張した。読み書きや、国民の「心性を開拓」して知識を啓発する普通教育だけでなく、「専門学の講究」(高等専門教育と研究) も重要だと言う。それは、政